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「その子らしさ」を愛おしく思えるようになるまで⑫ 〜『正しい』より『楽しい』〜


今回は、息子と一緒にいて気づいた事をお伝えしたいと思います。


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写真のカタツムリは、小学4年生の時に学校の宿題で作りました。

カタツムリを虹色に塗ると「終わり〜!」と言って机から去って行きました。


私は、宿題だし「作り直したほうがいいかな?」と一瞬思いましたが、去って行った息子を呼び戻すのも気が引けて、そのまま提出しました。


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また5年生の時には、こんなことがありました。

卒業する6年生に手紙を書きたいという息子。

お店に行くと、写真のセットを選びました。

私は、「渡すのは男の子だし…。」と思い、さりげなく雲や飛行機の柄のものを勧めました。

しかし、すでに買い物に興味がなく違う方を見ている息子。

結局そのレターセットを買いました。


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家に着くとすぐにお手紙を書き終えた息子。

私はその封筒を見ながら、

「色々なお花の絵のきれいなレターセット。別に誰が使ってもいいんだよなぁ…。」

と改めて思いました。






私は息子と一緒にいると自分が知らずにまとっている、様々な「〜べき」という価値感に気づかされます。


カタツムリは茶色であるべき。

花柄のレターセットは女の子が使うべき…。


そしてその根底に、「人からどう思われるか?」を気にしている自分に気づきます。


「人の目を気にする」ことは、時に「空気が読める」ということにつながるかもしれません。

でもそこにしばられすぎると、本当の自分の気持ちがわからなくなってしまいます。


私自身、幼い時はそんなに人の目を気にすることはなかったのに、成長と共にだんだんそういったことを気にするようになっていったと思います。


そういった価値観から自由な息子を見ると、


🍀「ありのままの彼ら(障害者)を見る事で、普通の人も自由であった自分を思い出す

<ぷかぷか(横浜B型作業所) 代表・高崎さん>


🍀「自分を生きるというとても難しいわざを、子どもは難なくやっている」

                       <「ぷれジョブ🄬」代表 西幸代さん>


以前聞いたこんな言葉を思い出します。


さらに、「『〜べき』という思考の固さ」は、相手を自分のものさしで測ること。

そしてそれが自分自身の生きづらさにもつながるように思います。


「父親だったら〇〇すべき」

「女性だったら女らしくすべき」

など…。


そういった、「(自分の中での)正しさ」の主張は、やはり幼い頃にはあまりなかったように思います。

思えば、自分が子どもだった時は、「何が正しいか?」ではなく「何が楽しいか?」を常に考えていました。


息子は、認知的に「正しい」という概念に至らないのかもしれません。

でも、「自分の思いに正直に、今を楽しむ。」

そんな彼の姿にふれるたび、私は自分の生き方を改めて考えさせられます。


息子の主治医とそんな話をしたときに、先生は、

「(彼らとの時間は)哲学にならざるを得ない。私たちは純粋な感覚を忘れている。」

と言っていました。


🍀「人からどう見られたいか?」ではなく「自分がどうしたいか?」

🍀「『正しい』より『楽しい』」


私たちが忘れてしまったそんな「純粋な感覚」。

今でも折に触れ、息子から思い出させてもらっています。


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